偏見はいかんのですよ。偏見はね。
たかだか一文を読んだだけでそう思ってしまうのはあたしの悪い癖だし、自分が好きなものを侮辱される事に攻撃的な性格ですから?
だからあえてカテゴリからも[有栖川]を外しているわけで。
うーん。あとからやっぱり消しちゃうかもしれないし。
だからその。ええ、話半分の酔っ払いのヨタ話程度に思って読んでくださいましねっ。


「10月29日に直木三十五記念館に来ていただく」という企画が現在あるそうなのです。前にもちょっと書いたあれです。
そのブログの中にこんな文章がありまして。

有栖川さんは本格ミステリー作家。東野さんは直木賞作家であり推理小説も得意とする。玄月さんは芥川賞作家で作品は人間の内面を映し出すような純文学。しかしながらこの三人がいずれも生野というフィールドに関わりがある。有栖川さんは一切生野も描かなければ、主人公の有栖川が夕陽丘のマンションに住んでいる設定の他は大阪の情景風景を描いたことはない。東野さんは「トキオ」や「白夜行」という作品に生野の町の息遣いは感じなくはない。玄月さんは芥川賞を獲った「蔭の棲みか」にしても「悪い噂」にしても「異物」にしても生野の存在抜きには描けない。全く異なる人気作家三人を通じて文学が現在に生きる「まち」の姿がなんであるかを考察していきたい。



色々突っ込みたい処があるのは分かります。分かるから。それは取りあえず置いとこう、ね。


一番気になったところだけ。
大阪の情景風景を書いたことがないって……ねぇ? あの夕日の美しさとか放り出してそれ言っちゃうの? そう思い。
思わずコメントで質問しちゃったんですが。
回答は「有栖川さんご本人が私にそう話されたことを根拠として書いて」いるのであり、「有栖川さんが言ったことの意味合いは、それが目の前を通り過ぎるものを描くことというレベルであって、ことさらその向こうに大阪を描こうという意図はないと言うことと理解しています。」
「幾分か言葉足らずであったことで誤解が生じたのは申し訳なく存じます」ともちゃんと書いてあります。


ええ、勿論。あんまり文章が長くなるとどうにか削りたくなりますよね。
特に説明文なんかは、このくらいは削っても読み取ってもらえるさっ。なんて思った処を得てして突っ込まれたり。
「一度はちゃんと書いたんだ、でも消しちゃったんだってばぁ」と地団駄を踏んだところで後の祭り。
だからさ。そういう処もあったのだと思うの。それは理解してます。でもね。


自分の言葉として書いておいて、後になって「誰それが言っていた」から。というのはどうだろう。
人の悪口さんざん言っておいて「って○○君が言ってました」なんていう子供の遊びじゃないのだから。
引用したとは一言も無く、自分の文章として載せた以上その責任を負うべきは書いた当人のみではないのか?
いや、そもそも最初に誰が言ったかすら問題ではない。
有栖川先生本人は「書いていない」つもりでも、他者の目から見ればはそれは充分「書いている」と受け取れる場合だってある。
ならば自分名義の文章で書いた時点で、自分はそれを是と認めたという事ではないのか?


そして「大阪の情景風景を描く」とはどのようなものを差して言っているのだろう?
適当に書くが。
例えば「どこそこに草花が咲き、ビルが立ち並ぶが、川には全て背を向けているため川から見る景色に趣が無い」。
こういうものが「情景や風景」ではないのか? 物理的に、目で見えるものことでしかない。
物語の舞台に入りやすくしたり、叙情的にしたり、ミステリなら伏線に利用したり、そういったもの。

しかし。この方の言う「ことさらその向こうに」ある「大阪」というのは、そこからさらに先へと突っ込んだものではないのだろうか?
例えば
「どこそこに草花が咲き、ビルが立ち並ぶが、川には全て背を向けている為川から見る景色に趣が無い。
なんということだろう。昔、大阪は水の都とうたわれていたのに。それがこんな状態とは嘆かわしい。何とかすべきではないのか?」
こういったものを差しているのではないのか?
それは、情景や風景を通して「向こう」に見た「大阪の姿」であり「情勢」ではないのか?
これはもはや「情景風景を描」くとは言わないのではないのか?


私の理解が間違っていて、この方の方が有栖川先生の意図を的確に読み取っているのかもしれない。
そんなことが無いとは言わない。
先生のファンを語っておきながら、先生の本当の意図も汲み取れないあたしは莫迦なファンかもしれない。
先方の方が先生と歳が近いし、同じ大阪の住人ならではの思考性というものもあり、同じ目線で物事が見えているのかもしれない。
対してあたしは大阪の文化なんて自慢出来るくらいちんぶんかんぶんだ。
けれど。


前にトークショウでもこの話を先生はされたことがある。だから覚えている。
直木三十五記念館の設立の為に行われたイベントだ。
手前味噌で申し訳ないが、自分が書いたレポをそのまんま引用する。


−−有栖川さんは今後、大阪を舞台にした小説を描かれる予定は


普段舞台に使いますよ。あえて大阪のあれやこれや全部並べてていうようにはしないけれど。
関西弁はこんなにいいですよ、こんなに豊かですよとか。それをやると、大阪がエスニックになってしまう。
沖縄文学がそう。沖縄を舞台にすると、差別の問題や沖縄戦を通して国家を描くとか、沖縄を舞台にする必然性を持って沖縄を描けよ、と言われているようで嫌。
外からみた大阪を意識してこういう趣旨だから今回は大阪を書きます、というのは私は書かない。
調べずに、アイディアで書くのが信条なので。資料をひっくり返して書かない。
反対をやってみたいっていうのもあるので、その時は大阪をテーマで書くと思う。
現代から過去を素行するようなのとか、場合によっては書けるんじゃないかと思う。



あなたならこれをどう読む?